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フュージリア擲弾兵連隊(Fusiliers-Grenadiers):[7]フュージリア擲弾兵連隊は1807年に結成された中年親衛歩兵連隊である。フュージリア猟歩兵連隊と同様な基準で組織化されたが、規模がやや大きかった。フュージリア擲弾兵連隊は、多くの場合に姉妹連隊であるフュージリア猟兵連隊と共に親衛フュージリア兵旅団の一部として戦闘に参加した。フュージリア猟兵連隊とほぼ同様な活動履歴を残し、1814年に解散し、1815年にはやはり再編制されなかった。服装は、赤の折り返し着きハビット、赤の肩章と白の襟章、白のチョッキ、白のズボンだった。帽子は円筒帽で白の紐と長い赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。 親衛海兵隊(Marins de la Garde):親衛海兵隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、イギリス海峡を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、親衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートやバージあるいはその他の船の操船にあたった。制服は金のレース飾りのついたネイビーブルーのユサール風ドルマンジャケットと、やはり金のレース飾りのついたネイビーブルーのハンガリー風ズボンだった。帽子は Gold Guard と刺しゅうされた円筒帽だった。[8]武器は歩兵と同様で、シャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような拳銃も持っていた。 若年親衛隊(Jeune Garde):[9]元々は少なくとも1回の方面作戦に参加した古参兵と、頭脳明晰な若い士官および徴集兵の中でも初年で優秀な兵とで構成された。後にはほとんど全員が選ばれた徴集兵と志願兵で満たされることになった。FX 能力というよりも熱心さで知られていた。 狙撃擲弾兵連隊(Tirailleurs-Grenadiers):1808年にナポレオンの注文で作られた連隊であり、最も知性があり強靱な新兵を若年親衛隊の第1連隊に編入したものであった。新兵の中でも背の高い者が編入された。下士官はすべて中年親衛隊から編成替えされた。この連隊を徐々に鍛えられた古参兵に変えていくことで、士気と戦闘能力を上げていった。制服は濃青の折り返しのある濃青のハビット、赤の肩章、白の管状襟章だった。帽子は赤の紐と赤の長い羽毛が着いた円筒帽だった。 狙撃猟兵連隊(Tirailleurs-Chasseurs):若年近衛隊の中で背の低い新兵がこの連隊に編入された。構成は狙撃擲弾兵連隊と同様だが、士官は老親衛隊から、下士官は中年親衛兵から編制替えされた。制服は赤の折り返しのある濃青のハビット、白の管がある濃青の襟章だった。さらに赤の縁のある緑の肩章が着いていた。帽子は円筒帽で緑あるいは緑に重ねた赤の大きな羽毛で飾られていた。 親衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(Chasseurs-à-Cheval)と騎馬擲弾兵連隊(Grenadiers-à-Cheval)の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(Gendarmes)大隊およびマムルーク(Mamelukes)大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝親衛竜騎兵連隊(Régiment de Dragons de la Garde Impériale、後の皇帝親衛竜騎兵連隊、皇帝妃親衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊(Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais、皇帝親衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2皇帝親衛軽騎馬槍騎兵連隊(2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale)あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。親衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。親衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。 皇帝親衛騎馬擲弾兵連隊(Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale):「神」(Gods)とも「巨人」(Giants)とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの親衛騎兵連隊の中でも精鋭集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。FX は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア軍近衛騎兵を打ち破る功績を挙げたが、最も有名な戦闘はアイラウの戦いの時のものだった。この時は、ロシアの60門の大砲の砲撃に暫く曝されて兵達は退避場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない。」[10]間もなく彼らはミュラの攻撃に加わりロシア軍の戦列になだれ込んだ。皇帝親衛騎馬擲弾兵連隊はポーランド槍騎兵連隊とともに、一度も負けたことがない親衛騎兵連隊であった。 親衛猟騎兵皇帝親衛猟騎兵連隊(Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale):「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)ともといわれた猟騎兵連隊は、軽親衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊のひとつと言える。フランス革命の1796年、ナポレオンはイタリア遠征に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽騎兵に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵の創設を命じた。[11]この時の200名の護衛が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア軍近衛騎兵を破る際に貢献した。半島方面作戦では、1808年のベナヴェンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗走した。しかしワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。 精鋭ジャンダルム大隊(Gendarmerie d’Elite):滅多に戦闘場面に遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重要な役目を果たした。ジャンダルムは大陸軍の憲兵であった。作戦本部の近くにあってその安全と秩序を図るとともに、捕虜を尋問し、賓客を護衛する栄誉に浴し、また皇帝の個人的な持ち物を警護した。制服は濃青の上着と赤の襟章、長い長靴と、騎馬擲弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった。1807年の後は、実際の戦闘に参加する機会が増え、1809年のアスパーン=エスリングでのドナウ橋の防衛で有名である。 マムルーク大隊(Escadron de Mamalukes):恐ろしい砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトはエジプト遠征で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊であった。ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」などと見られているが、士官はフランス人であり、下士官はエジプト人やトルコ人ばかりでなく、ギリシア人、グルジア人、シリア人、キプロス人なども含まれていた。元々は皇帝親衛猟騎兵連隊所属の中隊(あるいは半大隊)であった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の軍旗と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には老親衛隊の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され若年親衛隊に所属した。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った三日月刀に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。 親衛軽槍騎兵連隊(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale):[12] 第1連隊(ポーランド):1807年にナポレオンがポーランド軽騎兵の親衛連隊をFX することを承認した。外国為替 の教官により訓練が施された。しかし、初めての閲兵の時に、ボナパルトの皮肉「彼らは戦い方を知っているだけだ」によって位置付けが不明確になり、教官は即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトはポーランド軽騎兵を側近に置き、翌年のソモシエラの戦いでは、パレードの代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会を与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃を命じた。武器といえばサーベルと拳銃に過ぎなかったが、彼らは4個砲兵中隊を打ち破り20門以上の大砲をろ獲し、戦いの流れを決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業の後で、ナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の老親衛隊と同じ価値がある。君達を私の最も勇敢な騎兵隊と宣言しよう」と言った。老親衛隊に昇格され、槍を与えられたこの連隊はワーテルローまで皇帝の側近にあり、敵の騎兵に負けることはなかった。この第1連隊が発展して正規軍の中に第1ヴィスツラ・ウーラン(1e Vistula Uhlans)というポーランド人の騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだけではなく、深い政治的な信条の違いに基づくものであった。ウーラン槍騎兵の熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかもしれないが)強硬な共和制信奉者であった。このような部隊間の政治的あるいはその他の相違点は珍しくなく、ここによく表されている。フランス人に教えられる立場から、同僚のヴィスツラとともに教える立場に転換し、フランスや大陸軍の他の槍騎兵に対する模範となり、かれらの恐ろしいばかりの有効性を倍加させることになった。