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第2連隊(フランス=オランダ):1810年にフランス人とオランダ人が中核となり創設された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵(Les Lanciers Rouges)と呼ばれた。この部隊もロシアではコサックの攻撃と冬の厳しさのために甚大な被害を受け、ほとんどの兵と馬が失われた。連隊は1813年に再編制され、その最初の4個大隊は老親衛隊で構成されたために強力になり、さらに若年親衛隊から6個大隊が作られた。その後多くの戦いに参加して目立った働きをし、最後のワーテルローにも参加した。 第3連隊(ポーランド):1812年に若年親衛隊の一部として編制された。士官や下士官は古参兵であり、兵卒はポーランドやリトアニアの学生や地主の息子で、熱烈ではあるがまだ経験が足りない者たちで構成された。訓練が足りないままにロシア戦役に投入され、1812年の遅く、コサックとユサールによって包囲されスロニムで崩壊した。 皇帝妃竜騎兵連隊(Dragons de l’Impératice):1806年に皇帝親衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Impériale)として創設され、翌年皇帝妃ジョセフィーヌに敬意を表して改称された。この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬擲弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり株 までとされ、後に10人までに減らされた。他の親衛連隊からの志願者も編入を認められた。この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、老親衛隊と若年親衛隊の大隊があり、株 まで皇帝とともにあった。 皇帝親衛偵察兵連隊(Eclaireurs de la Garde Impériale):モスクワからの散々たる退却中、ナポレオンは数多くのコサック連隊の手腕に非常に印象づけられていた。そこで彼は、1813年12月における皇帝親衛隊の再編制期間中に、彼らを参考として新しい騎兵旅団を創設した。そして各1,000名から成る3個連隊が創設されて既存の連隊に付けられた。 皇帝自身の布告により、騎兵は大陸軍の5分の1から6分の1の間の構成であった。1個騎兵連隊は800名から1,200名であり、3ないし4個大隊、各大隊は2個中隊とされ、これに支援部隊が付いた。各連隊の第1大隊の第1中隊は常に「精鋭」と称され、最高の兵士と馬があてられた。フランス革命の流れの中で、封建制度(アンシャン・レジーム)の王室に忠誠で経験を積んだ貴族出身の士官や下士官の多くが失われていた。この結果フランス軍の騎兵はその質をひどく落としていた。ナポレオンはこの部門を再建し、世界でも最高のものに変えた。1812年まで、連隊間の大きな戦闘では負けることがなかった。役割に応じて重騎兵と軽騎兵に分けられた。 胸甲騎兵(Cuirassiers):資産運用 は昔の騎士よろしく重い真鍮や鉄製の胸甲や兜を着け、長く真っすぐなサーベルと拳銃、後にはカービン銃で武装していた。騎士と同様にこの部隊は騎兵の突撃部隊だった。かれらの着けている甲冑や武器の重量のために、騎手も馬も大きくて強い必要があり、その結果戦闘時には大きな効果を生み出すはずであった。しかし、かれらは多くの場合軽騎兵や竜騎兵の支援に回った。それにも関わらず、重騎兵は戦場でその能力を証明し、敵に強い印象を残した。特にイギリス軍は胸甲騎兵がナポレオンの親衛騎兵だと誤って信じ込み、その特徴ある胸甲や兜を自軍(Horse Guards)にも採用しようとした。当初25個連隊あり後に18個連隊となった。 竜騎兵(Dragons):重騎兵とも思われていたが、フランス騎兵の中重量主力戦闘部隊であり、戦闘、散兵戦や偵察にも用いられた。彼らは高度に融通が利く存在であり、伝統的なサーベル(トレド鋼製のよく切れる3つ刃のもの)だけでなく、拳銃やマスケット銃(乗馬時には鞍に着けていた)で武装し、騎乗だけでなく歩兵のように徒歩でも戦えるようになっていた。その融通性は歩兵としての能力によるものであり、剣の腕の方は他の騎兵のレベルに届いていないことがあったので、冷笑や愚弄のタネにされた。このパートタイム騎兵に適した馬を見つけることも大変であった。歩兵士官の中には竜騎兵になることを諦めるよう求められた者がおり、互いに反感を抱くこともあった。当初25個連隊、後に30個連隊あったが、1815年の「百日」の時はわずか15個連隊しかできなかった。 騎馬騎銃兵(Carabiniers-à-Cheval):竜騎兵と武器や役割で類似。しかし、甲冑が軽く元々は胸甲を着けていなかったので、接近戦や白兵戦には向いていなかった。その結果融通性もなくなり、連隊数も少なかった(当初2個連隊)ので、竜騎兵ほど認識されていない。1809年にオーストリアのウーランによって打撃を被り、ナポレオンは甲冑を着けるように命令した。しかし、1812年のボロジノでロシア胸甲騎兵になすところなく敗れ、翌年のライプツィヒでは、ハンガリーのユサールを前に恐怖に震えることになった。 ユサール(Hussards):この速度があり軽装の騎兵隊はナポレオン軍の目であり、耳であり、誇りでもあった。自身、全軍の中でも一番の騎手であり、剣の使い手と自負していた。この意見は全面的に否定できないし、その華やかな制服は品格を映し出していた。戦術的には偵察や散兵戦に、また指揮官に敵の動きを知らせ続ける一方で敵には情報を与えないようにする操作や、逃げる敵を追いかける際にも使われた。曲がったサーベルと拳銃のみを携行し、ほとんど個人向け国債 と思われるほどの向こう見ずな勇猛さで評判だった。30歳まで生き延びたユサールは、真の古参兵でありしかも幸運だとといわれた。1804年には10個連隊、1810年に11個連隊、1813年には13個連隊あった。 猟騎兵(Chasseurs-à-Cheval):上記のユサールと武装や役割が同じ軽装騎馬隊。ただし、上述の皇帝親衛猟騎兵連隊や歩兵の類似部隊とは異なり、特権的なものもなく、精鋭でもなかった。制服は色遣いが少なく、歩兵とおなじような円筒帽(フッサールの目立つ熊毛帽と対照)、緑の上着、緑の乗馬用ズボンと短い長靴だった。しかし、最も数の多い部隊であり、1811年に31個連隊あった。このうち6個連隊は非フランス人部隊であり、ベルギー人、スイス人、イタリア人、ドイツ人で構成された。 槍騎兵(Lancers):ナポレオン軍で最もおそれられた騎馬隊はポーランドのビスツラ・ウーラン槍騎兵であった。「地獄の闘牛士」とかスペイン語で「ポーランドの悪魔(Los Diablos Polacos)」と称され、中装および軽装のipo はユサールと同じくらいの速度と胸甲騎兵と同じくらいの攻撃力を備え、竜騎兵と同様な融通性もあった。名前が示す通り、槍とサーベルと拳銃を携行した。槍騎兵は槍が歩兵の銃剣より先に届くために、歩兵を正面攻撃するには一番効果があった(1811年のアルブエラの戦いでイギリスのコルボーン連隊に対して実証された)。また行軍する敵を追い詰めることにも優れていた。他の種類の騎兵隊に対しても同様に効果があり、有名な例としてはワーテルローでロイヤル・スコッツ・グレイズとその指揮官ウィリアム・ポンソンビー卿の息の根を止めたことである。親衛兵以外に槍騎兵は9連隊あった。戦争の終結後、イギリスはフランス軍に刺激されて独自の槍騎兵連隊を結成した。