源泉分離課税
この名前が示唆するように、砲兵は大砲の横に行軍し、大砲はもちろん馬で曳かせた。このために行動速度は歩兵の速度に準じ遅かった。1805年には8個連隊、後に10個連隊があり、さらに親衛連隊に2個連隊あった。しかし騎兵や歩兵の連隊とは異なり、これらは管理上の組織であった。主要な作戦上および戦術上の部隊は120名からなる大隊(または中隊)であり、旅団の中に作られるか師団や軍団に割り当てられた。 師団砲兵隊:各師団は3ないし4個大隊の1個連隊があり、1個大隊は大砲8門(大砲6、榴弾砲2)を持っていた。 軍団砲兵隊:各軍団も独自の1個連隊以上の砲兵隊があり、たいていは大きく重い大砲を装備していた。 大隊の要員は砲兵、下士官、士官の他に金属加工、木工、毛皮などの加工作業者も含んでいた。彼らは予備品を作ったり、大砲、台車、弾薬箱、馬車の維持・修理にあたり、馬の世話や軍需品の保管も行った。 騎兵は騎乗砲兵隊の素早い動きと素早いFX 初心者 に支援された。この部隊は騎兵と砲兵の組み合わせであり、馬や台車に乗って戦闘に参加した。前線に非常に近く活動するために、士官や砲兵は竜騎兵のように接近戦用の武器を携え訓練も施されていた。一度配置につくや、彼らは素早く下馬し、大砲を据え、照準を定め敵に集中砲火を浴びせた。さらに大砲をまた台車に載せ新しい場所に素早く移動した。このことを成し遂げるために訓練を積んでいたので砲兵の中でもエリート部隊であった。親衛騎乗砲兵隊は全速で駆けてきて最初の砲弾を放つまでに1分とかからなかった。そのような動きを目にして驚いたウェリントン将軍は次のように記している「かれらは拳銃を撃つように大砲をぶっ放している」。管理上の連隊は6個、さらに親衛兵に1個あった。騎兵部隊に割り当てられた大隊に加えて、ナポレオンは各軍団にまた可能ならば各師団に少なくとも1個大隊を割り当てようとした。その能力は十分高かったものの、その結成と維持にかかる費用もかなりのものであった。そのために、騎乗砲兵隊の数は徒歩砲兵隊の数より少なく、構成比は5分の1程度であった。皇帝が騎乗砲兵隊の兵士すべての名前を覚えているなどという自慢たらたらの冗談もあったくらいである。積まれた訓練、馬、武器や装備以外にも、彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵隊は徒歩砲兵隊の2倍、近衛砲兵隊の3倍の費用を要した。 砲車牽引隊(Train d’artillerie)はボナパルトによって1800年1月に創設された。その機能は砲車を曳く馬を御する御者であった。[14] それまでのフランスでは民間の御者を雇っていたが、彼らは戦火の中では大砲を放棄して自分達や価値ある馬の命を守ろうとした。[15] 砲車牽引隊の要員は、以前の民間人とは異なり、武装し、訓練を施され、兵士と同じように制服を与えられた。閲兵の時の見栄えもさることながら、このことは軍隊としての規律を守り、攻撃されれば反撃することも可能にした。御者はカービン銃と歩兵と同じ型の短い刀および拳銃を携行した。彼らはそれらの武器を使う機会はほとんど無かったが、賭け事や、喧嘩その他各種の遊びごとで確かに評判をとった。彼らの制服と上着は灰色であり、その頑丈な外観をさらに強めていた。しかし、彼らが戦闘可能ということはコサックやスペイン人またチロルのゲリラに襲われたときに有効であることが証明された。 各砲車牽引隊は当初5個中隊で構成された。第1中隊はエリートと看做され、騎乗砲兵大隊に配属された。中間の3個中隊は徒歩砲兵大隊に配属され、予備品箱、物資用荷車の管理や屋外での鍛冶、なども担当した。最後の1個中隊は予備役で、新兵や馬の訓練を行った。1800年の方面作戦に続いて、砲車牽引隊は8大隊に編成替えされ、それぞれ7個中隊を擁した。ナポレオンが砲兵隊を増強するにつれ、大隊が追加されて1810年には14個大隊を数えた。1809年、1812年および1813年には最初の13個大隊が倍増され27個大隊となった。さらに1809年以降、大隊の中には旅団の大砲を取り扱う中隊を創設するものがあり、歩兵隊に付属された。[15] 親衛兵は独自の牽引隊を持っており、親衛砲兵隊が増えるにつれて拡張し、大隊よりもむしろ連隊として組織化された。頂点は1813年から1814年にかけてで、親衛古参砲兵隊は12個牽引中隊に、親衛若年砲兵隊は16個牽引中隊に支援され、砲兵大隊に1個中隊ずつ先物取引 された。[16] 騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの軍事技師がいた。 大陸軍の橋梁技師(pontonniers)はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に艀(はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。橋梁技師の技術によって敵が居そうにない川を渡り敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時のベレジナでは全滅の危機から自軍を救うことができた。 技師達が脚光を浴びることはなかったが、ナポレオンは橋梁技師の価値を明らかに認め、その軍隊に14個中隊を配備し、その指揮は輝かしい経歴を持つ技師ジャン・バプティスト・エーブレ将軍に任せた。彼の道具や装置を使った訓練によって、素早く橋のさまざまな部品を造り、組み立てさらに後に再利用できるようになった。必要な資材、工具、部品は中隊の荷車で運ばれた。もし部品などが不足する場合は、即座に荷車に積んである鍛造機などの装置で製作された。1個技師中隊で80杯のはしけの橋(長さは120mから150m)を7時間以下で組み立てた。これは今日の基準から見ても驚異的である。 橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木工兵の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝がエーカーの包囲戦など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設に正面攻撃するよりも可能な限り回避し孤立化させた方がよいことを覚え、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。 ジニーと呼ばれる異なったタイプの先物取引 が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(jeu de mot)と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる精霊(Genie)にも掛けていた。現在のフランス語で工兵がGénie militaireと呼ばれるのはこの名残と思われる。 ナポレオンの語録の中でもよく日経225 される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の兵站の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、La Maraude)で日々を暮らしていくことを勧めていた。 補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫に物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」とといわれたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えばニコラ・アペールが発明した今日の缶詰につながる保存食の技術であった。