真正価値

医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。衛生や抗生物質に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。麻酔とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。 ナポレオン戦争の間、軍隊のCFD や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍のドミニック・ジャン・ラリー男爵の提唱になるいわゆる空飛ぶ救急システムである。戦場でフランス軍空飛ぶ砲兵隊が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、野戦病院の組織を改善することにより、現代の移動陸軍外科病院の原型を作った。 負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば義肢も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。 以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ不動産投資 支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。 シャップの腕木通信塔大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で伝書鳩を伝令に採用し、また観測用熱気球を偵察と通信に用いたた最初の軍隊である。しかしクロード・シャップによって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置(腕木通信)という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。 シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター(regulateur)と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。 シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りのひとつになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。 ポーランド兵多くのヨーロッパ諸国が外貨預金 を採用したが、ナポレオンのフランスも例外ではなかった。ナポレオン戦争中の大陸軍で、外国人部隊は重要な役目を果たし、特徴ある戦い方をした。ほとんどすべてのヨーロッパ諸国はさまざまな段階で大陸軍の一部となった。戦争末期には、数万名の兵士が従軍した。1805年には、ライン同盟の35,000名の部隊が情報通信線と本隊の側面を守るために使われた。1806年、27,000名が追加され同じ用途に使われた。さらに20、000名のサクソン人部隊はプロイセンに対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季方面作戦では、ドイツ、ポーランド、およびスペインが大陸軍の左翼を担い、バルト海に面したシュトラールズントとダンツィヒの港の占領を助けた。1807年のフリートラントの戦いでは、ランヌ元帥の軍団はかなりの数がポーランド、ザクセン、オランダの兵で占められた。このときは外人部隊が始めて戦闘における主要な役割を演じ、目だった働きをした。1809年のオーストリア方面作戦では、大陸軍のおよそ3分の1がライン連合の兵士だった。[17] またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人だった。1812年大陸軍の頂点を迎えた時、ロシアに侵攻した投資信託 の半分以上はフランス人以外でありオーストリアやプロシアを含み20か国に上った。 封建制度や他の商品先物取引 の時の軍隊とは異なり、大陸軍の昇進制度は社会的な階級や富よりも能力に重点をおいて成された。ナポレオンは彼の軍隊が実力社会であることを欲し、どの兵士でもその生まれによらず、成した業績によって(もちろん、彼らがあまりに高く、あるいはあまりに急速に昇進していなければ)指揮官の最上級まで急速に上り詰めることができた。概してこの目的は達せられた。その能力を発揮できる場を与えられれば、能力のある者は数年間で頂点まで辿り着けた。他の軍隊であれば数十年掛かったであろう。身分の低い兵士ですら彼の軍嚢に元帥杖を持てるとといわれた。下の表は現在の米陸軍と対照した階級のリストである。またギャラリーには頂点まで登った人物を示す。