信託期間
ナポレオンは優れた戦略家として知られており戦場に立つとカリスマ的であったが、戦術の発明家でもあった。彼は何千年もの間使われてきた古典的な陣形と戦術を組み合わせ、されにフリードリヒ大王の斜角陣形(ロイテンの戦いで使われた)や、革命の初期に国民皆兵(Levee en masse)軍隊で使われた群衆戦術といったより新しいものを取り入れた。ナポレオンの戦術は高度に流動的で柔軟性があった。対照的に敵の軍隊の多くは固定的な戦列(Linear)戦術や陣形に執着していた。戦列戦術とは歩兵の集団が単純に戦列をなし一斉射撃を交わすもので、戦場の敵軍に打撃を与えるか、側面から包囲するものであった。戦列陣形は側面からの攻撃に弱いものであるので、敵の側面を衝くように部隊を操作するのが高等戦術と考えられていた。これが成功するとしばしば敵は撤退するか降伏した。その結果、このやり方に固執する指揮官は側面を安全にすることに重点を置き、強い中衛や後衛部隊を回すことがあった。ナポレオンが度々やったことは、この戦列の考え方を逆手にとることであり、側面攻撃をする振りをしたり、あるいは敵に自軍の側面が餌であるように見せて(アウステルリッツの戦いや後のリュッツェンの戦いで実践された)、資産運用 の主力を敵の中央に進めさせ、戦列に割って入り追い詰めてしまった。ナポレオンは常に主に彼の親衛隊からなる強力部隊を温存しておき、戦況がうまくいっているときは止めを打つために、うまくいっていない時は流れを変えるために投入した。 より有名で広く使われ、効果的かつ興味ある陣形や戦術を下記に示す。 横隊(Ligne):基本的な3階層の横隊を組んだ陣形。歩兵や騎兵が一斉射撃を行ったり、正面攻撃を行うときに適していいたが、動きが比較的鈍く、側面からの攻撃に弱かった。. 行軍縦隊(Colonne de Marche):軍隊の急な動きや持続する移動、および正面攻撃には最善の隊形であったが、集中できる火力が少なく、側面攻撃や待ち伏せ、砲撃および突入には弱かった。 V字形隊形(Colonne de Charge):鏃(やじり)あるいは槍の穂先の形をした騎兵の陣形。急速に接近したり敵の戦列を破るために考案された。歴史的にもよく使われ効果のあった陣形であり、今日でも戦車隊が使っている。しかし突進が止められた時やタイミングを失った時にその側面への反撃に弱い。 攻撃縦隊(Colonne d'Attaque):歩兵の広い縦隊であり、戦列と縦隊の組み合わせであった。軽装歩兵の散兵線で適を混乱させたり、縦列での前進を排斥するために用いられた。縦隊が接近すると散兵が側面を防御し、縦隊が一斉射撃と銃剣による攻撃を行った。通常の薄い戦列陣形には効果的な陣形であった。攻撃縦隊はフランス革命初期のフランス軍が使った「群衆」あるいは「大群」戦術から発展した。その欠点は火力の集中度が劣り、大砲の攻撃に弱いことだった。 混成陣形(Ordre Mixte):ナポレオンの好んだ歩兵隊形である。複数の部隊(多くは連隊か大隊)が戦列陣に配置され、その背後や間に縦列攻撃部隊を配するものだった。これは戦列の火力と速度を組み合わせ、縦列攻撃部隊の行う混戦や散兵戦に利点をもたらした。多少の欠点もあったが、この戦術を成功させるためには、砲兵や騎兵の支援が特に重要だった。 散兵(Ordre Ouvert):歩兵や騎兵が部隊毎にあるいは個兵毎に散開する戦術。この戦術は軽装の部隊や散兵部隊には効果的だった。この戦術では丘や森のある荒れた地形では特に移動速度が速く、散開しているので敵の攻撃に対してもFX で有効だった。その欠点は一斉射撃のような手段がなく、接近戦の場合は特に騎兵に弱かった。 方陣(Carre):騎兵に対する歩兵の古典的防御陣形。兵士が中空の四角形を構成し、1辺は3層ないし4層とする。士官や砲兵、騎兵が中に入る。歩兵にとっては最も防御に適した陣形であり、特に丘の頂上や下り坂に面している時、有効だった。この陣形では動きが緩慢になり、固定された目標とされることがあった。その密度を濃くすると大砲の攻撃に弱く、それほどまでではないにしても歩兵の銃撃にも弱かった。この陣形がいったん壊れると完敗に終わる傾向があった。 空飛ぶ砲兵大隊(Batterie Volante):フランス砲兵の移動性能と訓練を生かした隊形。一つの大隊が戦場のある地点に移動し、短時間で鋭い砲撃を行い、続いてまた荷車に積んで別の地点に移動し、攻撃を加え、といった操作を繰り返すものであった。多くの大隊がこの攻撃を組み合わせ集積していくことで、敵の戦列に壊滅的な打撃を与えた。騎乗砲兵隊はこの戦術に特に適していた。ナポレオンは初期の方面作戦でこの戦術を使い、大きな成果を得た。この戦術の柔軟性で、攻撃を加えたい目標に素早く攻撃を集中できた。この戦術は特別の訓練を必要とし、また砲兵と馬が整然と行動できるように密接な指揮と連携を必要とした。 大砲兵大隊(Grande Batterie):もう一つの砲兵戦術であり、空飛ぶ外国為替証拠金取引 が使えない時に用いられた。大砲を単一の急所となる地点(多くは敵の中央)に集中するものである。敵が恐怖に捕らわれたり、陣形が崩れると大きな損害を与えられた。ただし、敵の情報が不足したままで単一の地点に多くの砲火を合わせることには細心の注意を払わなければならなかった。いったん砲門を開き目標が明確になると、照準を合わせ直すことで上記のことを回避できた。この戦術は敵の大砲からの反撃に弱く、騎兵の攻撃に対する防御も必要だった。これがフランス砲兵の最も良く知られた戦術であったが、ナポレオンは空飛ぶ砲兵大隊の方を好み、この戦術を使う必要のある時、あるいは使った方が成功の機会が増えると思われた時のみに、この戦術を使った。戦闘の開始時点で、ナポレオンは多くの砲兵大隊をさらに大きな大砲兵大隊にして、集中砲火を浴びせ、その後にそれを解いて空飛ぶ砲兵大隊に変えた。初期の方面作戦ではあまり使われなかったが、大陸軍の馬の数や砲兵の質が落ちてくると、この戦術を使う機会を増やさざるを得なかった。 イノシシの頭(Tete du Sanglier):複合した陣形であり、混成陣形に似ているところもあるが、三軍(歩兵、騎兵、砲兵)がV字形のような方形に組むもので、集中攻撃や防御の場面で使われた。歩兵が最前線で短く何層にも厚く隊形を組み、これをイノシシの鼻とした。その後ろに2組の砲兵隊を置き、イノシシの目とした。側面と最後尾は斜角陣で縦列、横列、方形陣の歩兵がイノシシの顔を作った。さらに側面と後ろを守るのが2組の騎兵隊であり、イノシシの牙の役目を果たした。高度に複雑な陣形であり、容易にまた急速に組めるものではなかった。いったん組まれると、牙を除いて、動きは緩慢であった。しかし、伝統的な方形陣よりも動きが速く、砲兵や歩兵の攻撃に対しても防御が堅かった。牙は強い攻撃能力も持っていた。後の1830年代と1840年代に行われた北アフリカ制圧ではこの戦術が効果的に用いられ、1920年代まで使われていた。 レジオンドヌール勲章を渡す日経225 大陸軍は当初、大西洋岸軍(L'Armee des cotes de l'Ocean)として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、1803年にブローニュの港に集結した。1804年のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に続いて、第三次対仏大同盟が結成され、大陸軍は1805年にその視線を東に向けた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍してウルムの要塞でカール・マック将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。ウルムの戦いでは、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月にウィーンが占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。この戦争はもっと長く続いていた可能性がある。1805年12月2日、アウステルリッツの戦いで事態は決定的に変わった。数的には劣勢であった大陸軍がアレクサンドル1世の率いるロシア=オーストリア連合軍を破った。この見事な勝利によって、12月26日のプレスブルクの和約が結ばれ、翌年、神聖ローマ帝国は解体された。[21] 中部ヨーロッパにおけるフランスの力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、1806年の第四次対仏大同盟が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、イェナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。ルイ=ニコラ・ダヴー将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲でベルリンに最初に入場する栄誉に浴した。フランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩き、平和は訪れなかった。[22] ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン投資信託 が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、1807年2月7日から8日にかけてのアイラウの戦いでは事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、ベニグセンのロシア部隊は6月14日のフリートラントの戦いで完敗した。7月にフランスとロシアの間でティルジット条約が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。[23] ポルトガルが大陸封鎖令に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が6年間続く半島戦争の始めとなり、フランス第一帝政の資源と人を浪費させることになった。フランスは1808年にスペインを占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが個人的に介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、ブルゴスの要塞を占領し、ソモシエラの戦いでマドリッドへの道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスのムーア軍に鉾先を向け、1809年1月16日のコルナの戦いで英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍をイベリア半島から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。[24]